私が介護のお仕事を始めた理由。 - 介護のお仕事

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私が介護のお仕事を始めた理由。


昨日お休みで、今日からまた3日間、介護のお仕事です。

なれない仕事のせいか、なかなか疲れが取れず、
朝になると「あ〜行きたくない><」って思うのですが、
帰宅すると「明日も頑張るぞ」と思うのはなぜなんでしょうね。


今日も「買い物代行」に行ってきました。


失敗もしましたが、何とか時間内に終わらせることが
できました。


3回目あたりから「一人で行くのよ」と言われるかもしれません。


何故なら先輩たちもみなそうやって、鍛えられてきたからです。


今日は私がなぜ座り仕事で楽?な「事務」のお仕事を
やめてまで「介護のお仕事」をはじめようと
思ったのかを少しお話ししたいと思います。


今年の始めに、10年もあっていなかった実の母親の具合が
良くないらしいと、人づてにきき、母のいる茨城まで会いに
行きました。


私と母は、どちらかというと10年ほど前に
母の暴言のせいで、「絶縁状態」にありました。


でも母は、自分が私を傷つけたと思ってなかったみたいです。


ただ、埼玉の借家から立ち退きを余儀なくされ、
引越し先のアパートの「保証人になって欲しい」という
電話があったとき、私は厳しく断りました。


そのあと、母からは一切の連絡が来なくなりました。


私も母とはあえて連絡を自分からとろうという考えも
なかったため、10年間、音信不通になっていたのです。


その後、母は再婚相手と、自分の息子である私の兄とで
茨城県に移り住んだようでした。


母と仲が良くなかった原因は、それ以外にもありました。


母は私が幼い頃から兄を溺愛していました。


そのため、妹でありながら私は兄のために随分
我慢を強いられて育てられました。


そのように「甘やかされて」育った兄は当然、
まともな大人に成長することはなく、未だに友人の
ひとりもなく、女性とお付き合いしたこともありません。


過保護に育てられているので学校は休みがち、
仕事をするようになっても「ズル休み」が多くて、
そのせいでいくつもの会社から「クビ」になりました。


もともと勉強も嫌いなので学歴も中卒です。


仕事も大嫌いなひとでしたので、失業したら
しばらくは遊んでいました。


そのせいで母ははずっと貧乏でした。


私の実の父親とは遠い昔に離婚していたので、
母は私が家を出たあとは好きな男性を作って再婚しました。


母が再婚した人は働きものでしたが、お金使いも荒くて、
やはり母は再婚してからもずっと貧しい生活をしていました。


すでに21で結婚した娘である私のところに「借金」を
申し込んで来たことも1度や2度ではありませんでした。


それでも娘の私に対しては威圧的で高慢な態度を
変える事はありませんでした。


母にとって娘の私は、わがままが言える唯一の
存在だったようです。


でも、幼いころからの「不公平に扱われた」という
恨みもあり、私はそんな「母と兄」が嫌でした。

心のなかでは本当は母を愛していましたし、
母から愛されたいと思っていました。

だから余計に反発したのだと思います。

そんないきさつがあって、私は母と兄とは距離を
置くようになっていたのでした。


その母が寝たきりになっている。


知人を通して知り、さすがにほうっておけなくて
会いにいったのでした。


10年ぶりにあった母は「若くて綺麗」だった母とは違い、
どこぞの老婆か?と思うような風貌に変わっていました。


歯はほとんど抜け落ち、頭は白髪。


住んでいる借家はとても人間の住むところとは
言えないような、ゴミ屋敷でした。


足の踏み場もないようなところにいい年をした「親子が3人」
どこでご飯を食べ、どこで寝ているのだろう?と思うような
悲惨な暮らしをしていました。


そんなゴミの中で、まともに横になることもできないような
狭い空間に横たわっていた母を見たとき、それまでの恨みも
つらみも消えていくのを感じました。


このままでは母は死ぬのではないか。


見るからに弱っている母は、すぐにでも介護が
必要な状態でした。


とっさに私は主人に「私のところに引き取ってもいい?」と
聞きました。


優しい夫は「もちろんだよ」と言って、母と兄と義父をうちに
住まわせる事に同意してくれたのです。


しかし、兄と義父はうちに来ることを尻込みしたため、
とりあえずは母だけでも連れて行こうと思いました。


とは言ってもうちも模様替えをしなければ、母の
介護ベッドを置くスペースもありません。


1週間の猶予をもらい、次の週に母をうちに連れて
きたのでした。


母を引き取ったものの、あれほど食べることが
大好きだったのに、ほとんど食べ物を口に
しなくなったのを見て翌日、近くの病院に連れて行きました。


歯がないから食べられないのだろうと思った私は、
点滴でもしてもらえば力も付き、元気になるだろう、
と思っていたのです。


ところが、診察した医師から思いもよらぬ言葉を
聞かされました。


「詳しく検査をしてみなければはっきりしたことは
言えませんが、お母さんは『ガン』です。このままでは
あと半年もつかどうか」


まさかの診断に、診察室や待ち合い室でボロボロと
涙がこぼれ、悲しいのと悔しいのとで、私は涙を
止めることができませんでした。


兄がだらしがないばかりに母をまともに病院にも
連れて行ってあげてなかったせいだ。


私の怒りの矛先は仕事もしない、だらしのない
兄に向けられたのです。


すぐに紹介された大病院にいき、入院させたのですが、
母は入院を嫌がったため、20日後には在宅診療に
切り替えました。


介護保険医療保険も、なんにも払ってなかった母たち。

年金ももらっていませんでした。


そのため、母の入院費用も介護費用も在宅診療代
全て私と主人が出しました。



働こうとしない兄を茨城から一時的に私の家に呼び、
仕事で介護をすることができない私の代わりに
母の面倒を見るようにいいました。


当初は嫌がっていた兄でしたが、お金もないくせに
仕事をしているわけでもなく、暇にしているのですから
それくらいしてもらわないと・・ということで渋々
留守番程度の介護をさせました。


母はほとんどものを食べなかったので、兄は
介護らしい介護もしておらず、おむつは
仕事から帰った私が取り替えていました。


朝も仕事に行く前に母のおむつを交換してから
仕事に行きました。


なので兄はほとんどうちにいても「テレビ」を
見てただけでした。


そんな「介護生活」をしているときに、もっと母のために
手際よくおむつの交換や体位交換などをしてあげられたら・・と
思い、「ヘルパー2級」の講座の資料を取り寄せてみたりしました。


でもいつ死ぬかわからない母を置いて、とてもじゃないけど、
講座に通う暇もありませんでした。


そして、母を引き取ってから1ヶ月弱の3月の初めごろ、
母は帰らぬ人となりました。


死因は「末期の大腸がん」でした。


母のためにと思って一度は資料まで取り寄せたものの、
母が亡くなった今、ヘルパーの資格などどうでも良くなりました。


もう、してあげたい「母はいない」のです。


しかし、10年も離れていた間、私は会おうと思えば
チャンスはあったのに、自分からも会いにいくことは
しませんでしたので、本当に後悔しました。


ようやく一緒に暮らせたとき、弱っていたとは言え、
母はとても喜んでうちに来てくれたのです。

入院中も「早くお前の家に帰りたいよ」と
毎日のようにいっていた母。


たった1ヶ月とちょっとの「母の部屋」を
母は気に入ってくれていたのです。


今、母のいた部屋にはもう介護ベッドもありません。


母のおコツと母の遺影が飾られています。


私は母にしてあげられなかった「介護」を
ほかのご老人にすることで、母に対する後悔の念を
償おうとしているのかもしれません。


母にはできなかったことを誰かにしたいのです。


それが自己満足かもしれないけど。


母は私の自宅で最後のときを迎えました

母が息を引き取った朝、夜通し苦しむ母の手を
握り、添い寝をしていました。


母はわたしの隣で眠りながら亡くなって行きました。


その話を今回の老人ホームのホーム長に話したとき、
「お母さんはとっても幸せでしたよ」と言ってくださいました。


そして「うちにおいで」と言って採用してくださいました。


だから私は今、お客様を自分の親だと思って、
世話をしていきたいのです。

そこまで愛せるかどうかはわかりません、

いえ、できないでしょう。

でも私は自分を許すことができないのです。

母を見捨てていたあの10年間を。

誰かの役に立つことで、自分の罪を償いたいのです。

それが私が介護のお仕事を始めた理由です。




2013-09-13 | Comment(0) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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